> 石をめぐる冒険
第十二回

バック・トゥ・ザ・五輪塔

内藤理恵子

五輪塔との出会い

2007年、大学院生の頃のことです。現代の葬送文化を研究テーマにしていたこともあって高野山奥の院に企業墓を撮影に行ったのですが、その際、奥の院参道に武将の五輪塔が並んでいるのを見て、驚いた記憶があります。 そこで企業墓を撮影した後に、夢中になって五輪塔にシャッターを切ったことを覚えています。有名な武将が高野山に五輪塔として仲良く(?)並んでいるのを見ると、血で血を洗う戦国時代の夢の跡のようでもあり、武将のOB会のようでもありました。 周囲に苔むした五輪塔群が並んでいるのも良い味を出しています。 五輪塔が成熟し自然と一体になっているところが「渋かっこいい」のです。

(写真1)豊臣家墓所(筆者撮影)

(写真1)豊臣家墓所(筆者撮影)
(写真2)周囲の五輪塔(筆者撮影)

(写真2)周囲の五輪塔(筆者撮影)

それから10年くらい経ち、2016年2月に神奈川県立歴史博物館で開催された『石展―かながわの歴史を彩った石の文化』を訪ねた時には、 鎌倉時代の「一石五輪塔」に出合いました。一般的な五輪塔は各部分がパーツに分かれていますが、一石五輪塔は各パーツを別々に作らず、一つの石材から立体的に彫り出す形式。 第一印象は、『おそ松くん』の「ちび太のおでん」。おでんの串に刺したような形状に見えてしかたないのです。

また、鎌倉時代の五輪塔陽刻板碑(写真3・右上の黒曜石の石器の左側に掲載されているもの)はイラストレーションを浮き彫りにしたような形式でした。こちらも、どこかアニメ的表現を思わせます。

(写真3)『石展―かながわの歴史を彩った石の文化』の図録の表紙(筆者私物を撮影)

(写真3)『石展―かながわの歴史を彩った石の文化』の図録の表紙(筆者私物を撮影)

赤塚不二夫が漫画『天才バカボン』に仏教思想を織り込んでいるという通説(バカボンの名前は「婆伽梵・ばぎゃぼん」由来であるという説)はよく知られています。 ですから、同じ作者の作品である『おそ松くん』にも仏教的な思想(五輪塔は、物質を作り出す五大要素を表現する密教の思想)を仕込んでいた可能性はありえなくはないと思います。

前置きはこのあたりにして、このような五輪塔が冒頭に挙げたような武将の墓所以外ではどのように信仰されていたのでしょうか。考えてみましょう。

偶然、今も残る「やぐら」に出合った

まず、五輪塔陽刻板碑に関しては、本連載の第5回の「もしもホグワーツ魔法魔術学校に板碑があったなら」(https://reien.top/article/religious-culture/2021-05/kosinto-5.html#fh5co-page)に特集したような板碑のモチーフに五輪塔を用いたと考えればわかりやすいです。

一石五輪塔に関しては、少し違ったパターンを考えるべきだと思います。神奈川県歴史博物館の『石展』の図録(写真3)によれば、「鎌倉市内のやぐらから出土した」とあります。では、ここで言われている「やぐら」とはなにか? この疑問は思わぬところで解消されることになります。これは、疑問を抱えていた私に、答が向こうから歩いてやってきた!という感じがありました。

やぐらの五輪塔

2019年、ある映画のイベントに出演を依頼され、宮城県松島町をたずねた時のことです。 開催関係者の一人から「おもしろいものがあるから雄島に行ってみるといいですよ」と言われました。 行ってみると、そこに先述の「やぐら」(納骨・供養のために山腹に掘り込まれた横穴のこと。 鎌倉時代から室町時代にかけて作られたもの)があったのです。(写真4) 島全体が異世界のようで、不思議な空間ですが、その後地元の学芸員さんに聞いたところ神秘的なエピソードがいくつもありました。

(写真4)やぐらに直接彫られた五輪塔(筆者撮影)

(写真4)やぐらに直接彫られた五輪塔(筆者撮影)
(写真5)こちらは風化が激しいですが五輪塔が彫られています(筆者撮影)

(写真5)こちらは風化が激しいですが五輪塔が彫られています(筆者撮影)

これらは鎌倉時代と室町時代のもので、2006年から東北学院大学が調査研究の対象にしているようです。 また、松島観光協会の立て看板によれば、 この島で修行をしていたお坊さんもいたとのこと。雄島は納骨、供養、お坊さんの修行の場として複数のレイヤーが重なる特別な聖地といったところでしょうか。

年代別特徴

一石五輪塔、五輪塔陽刻板碑、やぐらに直接彫られたもの、という珍しい五輪塔がそろったところで、今度は五輪塔の形の変遷について見てみましょう。今回、参考にするのは、日下部朝一郎『石仏入門』です。この文献を参考にして、各時代の五輪塔の形状の特徴をざっくり区分けすると、以下のようになります。

  • 美しくバランスが良く、重量感あり・・・鎌倉時代の特徴
  • 鎌倉時代よりも小型で不安定・・・室町時代の特徴
  • 火輪がそり返って変形、他にもさまざまな変形型が見られる・・・江戸時代の特徴
  • (参考:日下部朝一郎『石仏入門』熊谷市郷土文化会、昭和40年)

芸術家たちが芸術家のために建立した五輪塔

次に、昭和に建立された斬新なスタイルの五輪塔をご紹介します。これまた偶然なのですが、深大寺(東京都調布市)に元三大師の石仏を見に行ったところ、その近くにこの五輪塔を見つけたのです。

とてもモダンなスタイルが印象に残ったので後から調べてみると、これは日本画家である小堀鞆音(1864〜1931年)の門下生たちが1939年に建立したものでした(参考・独立行政法人 国立文化財団機構 東京文化研究所のデータベース)。

この五輪塔が、いまのところ私のイチオシです(写真6)。非常に大胆なアレンジで、どこかユーモラスでありながらも五輪塔としてバランスがとれており、まさに芸術家のために芸術家たちが建立した供養塔といったところでしょうか。

ちなみに、(写真7)は1987年、漫画家の水木しげる先生(1922〜2015年)の生前に建立された五輪塔のお墓(調布市・覚証寺)ですが、こちらは、どこか飄々とした佇まいがあり、まるで水木先生の分身のように感じます。

(写真6)小堀鞆音(日本画家、1864〜1931)の供養塔(筆者撮影)

(写真6)小堀鞆音(日本画家、1864〜1931)の供養塔(筆者撮影)
(写真7)水木しげる先生のお墓としての五輪塔(筆者撮影)

(写真7)水木しげる先生のお墓としての五輪塔(筆者撮影)

新時代の五輪塔

最後に、五輪塔のデザインが、現在どのように供養に活かされているか、について。2016年と2017年のエンディング産業展に展示されていた「合同墓に活かされている事例(写真8)」と「コンパクト墓石(写真9)」の両者から見てみましょう。

日本の全体的な傾向として葬送(葬儀・法事・お墓ともに)は小規模化する傾向にあります。お墓に関しては、一般的なお墓のスタイルの他に、「合同墓」「小型の個別のお墓」という選択肢も増えました。そのいずれにも、写真8、9のように五輪塔は生かされています。

合同墓の五輪塔は同じ菩提寺に眠る人たちの象徴として適しています。また写真9のコンパクト墓石は写真3のような鎌倉時代の五輪塔陽刻板碑や一石五輪塔を想起させます。

いずれにしても、時代の荒波に揉まれ、細部のデザインを変えながら、五輪塔は鎌倉時代から現在に至るまで生き残ってきました。五輪塔は、石造りが一般的ですが、かつては「木」「金属」「泥」などでつくられてもいました(参考:日本大百科全書)。 そんな中、「石」で作られたものがあったからこそ、五輪塔は時代を越えて現在に至るまで継承され、未来の供養にも活かされていくのだと言えるでしょう。

(写真8)2017年のエンディング産業展に展示されていた合同墓(筆者撮影)

(写真8)2017年のエンディング産業展に展示されていた合同墓(筆者撮影)
(写真9)2016年のエンディング産業展に展示されていた五輪塔を模したコンパクト墓石(筆者撮影)

(写真9)2016年のエンディング産業展に展示されていた五輪塔を模したコンパクト墓石(筆者撮影)

プロフィール・内藤理恵子(ないとうりえこ)
1979年愛知県生まれ。南山大学大学院人間文化研究科博士後期課程修了。博士(宗教思想)。 南山大学宗教文化研究所非常勤研究員。日本ペンクラブ会員。執筆ジャンルの幅は哲学、文学、空海の思想、石の文化など多岐にわたる。著書に『正しい答えのない世界を生きるための 「死」の文学入門』(日本実業出版社)など。