> 石をめぐる冒険
第八回

五百羅漢像は
仏教のスマブラである

内藤理恵子

五百羅漢像は果たして五百羅漢か?

2017年の秋、日本石仏協会の例会に参加したときのことでした。

ベテランの石仏協会員から「石仏についての知識量を一気に増やしたいなら三重県菰野町竹成の五百羅漢像を見に行きなさい」と指南を受けました。そこで、次の週に菰野町の五百羅漢像を訪ねたのですが……そこで見たものは、良い意味でイメージしていた「五百羅漢」とは違うものでした。

というのも、そもそも五百羅漢とは、釈迦入滅後の結集のときに集まった500人の釈迦の弟子、阿羅漢のことを指しますが、竹城の五百羅漢は「大黒天」「閻魔大王」「三蔵法師」から「弥勒菩薩」までもがスタメン入りしていたのです。正直、「このメンバーは五百羅漢とは関係ないのでは」と思いました。

しかし、これはこれで興味深いもので、デジャブを感じました。そうです、任天堂の超メジャーなゲーム『大乱闘スマッシュブラザーズ』(略してスマブラ)の世界観に似ているのです。ご存知ない方にこのゲームソフトをご説明いたしますと、これはさまざまなゲームの「スター選手」がひとつの場に集結したゲームで、いわば作品を飛び出したキャラクターたちの、時空を超えた夢の共演というわけなのです。

なお、菰野町の五百羅漢の正式名称は「三重県指定史跡 大日堂境内の五百羅漢」。

菰野町竹成区出身の照空上人が1852年に発願し、桑名の石工・藤原長兵衞一門の手により1866年に完成したものです(参考・三重県教育委員会、菰野町教育委員会による立て看板)。

今回はその五百羅漢の中から、あえて五百羅漢以外の「イレギュラーなメンバー」を抜粋して解説します。民俗的なものから山岳宗教、庚申信仰(三猿)、地獄オールスターズ、また未来からは弥勒菩薩も参戦しているため、仏教界のスマブラというよりは宗教界のオールジャンルでのスマブラという感じかもしれません。

 

七福神

まずは、おなじみ七福神。なぜか大黒天と福禄寿(写真1)、弁財天(写真2)が菰野では五百羅漢として参戦していました。

七福神とは、インド・中国・日本の信仰が入り混じったもの。室町時代には七福神に仮装した行列も出現しました。(参考:百科事典マイペディア)。「七福神の仮装」は名古屋の大須観音の節分会のパレードなどで見ることができます。(写真3)

言うまでもなく、お釈迦様の入滅後の結集に室町時代の日本の民俗的な神様集団が混じっていたら、史実としてはおかしいわけですが、菰野の五百羅漢の場合は、石仏たちの大らかで楽しそうな表情も相まって、なんとなくその存在を許せてしまうものです。

(写真1)室町時代の七福神ブームの際、後から七福神メンバーに加わった福禄寿(左)。グループ・サウンズの「ザ・タイガース」でいうと岸部シローさんか、「ザ・スパイダーズ」でいうとムッシュかまやつのポジションです。 右の大黒天はもともとヒンズー教の破壊神シバでした。破滅型だった神様が丸くなってバンドのメインを張っているのはロックバンドっぽくもあります。(筆者撮影)

(写真1)室町時代の七福神ブームの際、後から七福神メンバーに加わった福禄寿(左)。グループ・サウンズの「ザ・タイガース」でいうと岸部シローさんか、「ザ・スパイダーズ」でいうとムッシュかまやつのポジションです。
右の大黒天はもともとヒンズー教の破壊神シバでした。破滅型だった神様が丸くなってバンドのメインを張っているのはロックバンドっぽくもあります。(筆者撮影)
(写真2)七福神の紅一点の弁財天。もともとはインドの川の女神です。(筆者撮影)

(写真2)七福神の紅一点の弁財天。もともとはインドの川の女神です。(筆者撮影)
(写真3)大須節分会のパレードの七福神(2016年、筆者撮影)

(写真3)大須節分会のパレードの七福神(2016年、筆者撮影)

役小角

次に山岳信仰の始祖・役小角(写真4)に着目してみましょう。

なぜ筆者に、これが役小角だとわかったのか。というのも、その前年の2016年にたまたま静岡県藤枝市で、役小角の比較的大きな石仏を見たのです。役小角の石仏自体が「レアな存在」ということもあって、印象に残っていました。ですから、菰野の五百羅漢の役小角はそのミニチュア版として認識することができました。

ちなみに、山岳信仰に詳しい人は役小角をよくご存知かと思いますが、その存在自体を知らない方もいらっしゃると思います。そんな方には、彼の生涯を楽しく知ることができる水木しげる『神秘家列伝 其の参』をおすすめします。オムニバス形式で水木しげる流に人物を紹介するこの伝記漫画は、生まれ育ちから姿を消すまで不思議なエピソードに包まれた役小角の生涯をわかりやすく紹介しています。

ちなみに言うまでもなく、役小角も釈迦入滅後の結集には参加していません。

(写真4)三重県菰野町の役小角。(筆者撮影)

(写真4)三重県菰野町の役小角。(筆者撮影)
(写真5)静岡県藤枝市にある役小角の石仏。(筆者撮影)

(写真5)静岡県藤枝市にある役小角の石仏。(筆者撮影)

三猿

次に、小さくてかわいい石仏が混じっていたので、こちらも紹介します。庚申信仰にも関係のある(https://reien.top/article/religious-culture/2021-01/kosinto-1.html)三猿です。

廃仏毀釈の影響か、後からコンクリートで補修がしてあり、それがかえって愛らしい造形になっているところに、ぜひ注目してください。廃仏毀釈後に補修された石仏は、壊された後に石ころを乗せたものや、継ぎ足したものなどがあり、それらは後年の人たちの信仰を枝接したような風情が出るものです。この場合もコンクリートでの補修が補修以上の味わいになっていて、かえって愛らしい表情を生んでいると思います。

(写真7)特に右端の「きかざる」は、お面をつけた子どもにも見えてきます。(筆者撮影)

(写真7)特に右端の「きかざる」は、お面をつけた子どもにも見えてきます。(筆者撮影)

閻魔大王・人頭杖

地獄オールスターズが勢揃いしているところも圧巻です。閻魔大王の石仏は時折見かけたりもしますが、さすがに「人頭杖(にんずじょう)」の石仏は珍しい!人頭杖は、アニメ好きには、地獄を描いた人気アニメ『鬼灯の冷徹』にも登場するためおなじみでしょう。「地獄で亡者の善悪を判断する小道具」が人頭杖なのですが、その意味を知らない人が見たら、生首の像が置いてあるようで、ギョッとしてしまうかもしれません。

閻魔大王の前に「十王」が揃っているのも壮観です。というのも、日本でよく知られている「十三仏」は、この「十王」を起源としています。

渡辺章悟氏によれば、十王信仰の根拠は『仏説預修十王生七経』(亡者が善悪を捌かれる)という経典です。それが日本に入ってきて、鎌倉時代に『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』となり、その中で「十王が裁いた亡者を、初七日から三回忌までの間に十の仏様が救う」……といった風に独自の発展をしたのです。加えて、十三仏は、それが南北朝時代にさらなる発展を遂げたものです(渡辺章悟「日本人の死後観 十三仏信仰を中心として」東洋学研究)。

(写真8)人頭杖の石仏、インパクトが強いです。(筆者撮影)

(写真8)人頭杖の石仏、インパクトが強いです。(筆者撮影)

つまり、菰野の五百羅漢の面白さは、仏教が中国の民間信仰と習合した偽経をもとにして信仰された十王と、日本独自で加えられた十仏のメンバー(弥勒菩薩など)、さらには十三仏のメンバー(大日如来)が時空を超えて同所に集っているという点にあります。 

千葉県鋸山・維摩の石仏

菰野ですっかり五百羅漢が面白くなった私は、同じく2017年の冬、千葉県鋸山日本寺の五百羅漢像も訪ねてみることにしました。

千葉県の公式サイトによれば「鋸山南斜面に広がる境内には、東海千五百羅漢とも呼ばれる1553体の石像群がある。この石像群は、安永9年(1780)に当山第九世高雅愚伝禅師の発願により、上総桜井(現在の木更津市)の石工である大野甚五郎英令が、門弟27人と21年をかけて彫ったもの」とされています。

また、『鋸山完全ガイド』によれば、五百羅漢を建てるための寄付が集まりすぎて、磨崖仏まで建立されたという経緯があるようです(写真9)

(写真9)薬師如来の磨崖仏(31メートル)。現在のものは昭和に復元されたものです。(筆者撮影)

(写真9)薬師如来の磨崖仏(31メートル)。現在のものは昭和に復元されたものです。(筆者撮影)

これらの情報を整理すると、ここでいう五百羅漢とは、人々の信仰が集結し、多額の寄付金が集まったがゆえに1553体もの石仏となっていた・・・・・・。ということは、シンプルに考えても、五百どころかそれより千体も多いわけです。中には聖徳太子や空海の像もありました。

つまり日本の仏教における「五百羅漢」とは、原義にこだわらず、日本の民俗と本来の五百羅漢像とが習合しているものなのです。 鋸山の石仏群の中でも、特に印象に残ったのは在家信者の理想像ともいわれる(維摩経)(大乗経典・2世紀頃に成立したといわれる)の「維摩」の石仏。 そんな維摩がどのようなプロフィールであったのか。長尾雅人「『維摩経』を読む」(岩波現代文庫)によれば、維摩という名は「汚れを離れた」という意味で、ヴァイシャーリーというところに住んでいた大金持ちだとされています。同書によれば、中国には石窟に維摩が彫刻されている事例がいくつもあるようです。 『維摩経』によれば、彼は阿羅漢も言い負かせてしまう頭のいい在家信者であったと言われています。彼が病気になった時(実は方便としての病)などは誰も(仏様ですら)見舞いに行きたがらず、結局、文殊菩薩が見舞いに行って対談することになったのは有名なエピソードです。

日本における五百羅漢像とは、厳密な五百羅漢への信仰というよりは、大乗仏教や縁起物、民俗的な信仰も含めた大集合そのものであり、楽しいパーティ、つまりは「スマブラ」のようだものだと考えるのが一番しっくりくると思います。

(写真10 )鋸山の維摩の石仏。(筆者撮影)

(写真10 )鋸山の維摩の石仏。(筆者撮影)

プロフィール・内藤理恵子(ないとうりえこ)
1979年愛知県生まれ。南山大学大学院人間文化研究科博士後期課程修了。博士(宗教思想)。 南山大学宗教文化研究所非常勤研究員。日本ペンクラブ会員。執筆ジャンルの幅は哲学、文学、空海の思想、石の文化など多岐にわたる。著書に『正しい答えのない世界を生きるための 「死」の文学入門』(日本実業出版社)など。