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2021/06/19

父は共同墓地に眠る。

蜂賀 三月
※このエピソードは、霊園ガイドサイトの開設1周年記念として募集した「お墓のエピソード」の作品です
(出典→....>外部リンクへ)。

父は共同墓地に眠る

 父は私が小学生の頃に亡くなっている。  もう20年も前のことだ。

 私の家には色々と事情があって、私は父と一緒に過ごした期間がとても短い。それでも、父と過ごせた時間は今でも大切な思い出だ。

 そんな父の遺骨は、葬儀の後は自宅で安置されていた。一般的に四十九日を過ぎたら遺骨はお墓に納骨する。だけど、私の家は「家のお墓」というものは存在しなかった。新しくお墓を建てたりする金銭的な余裕も、それに伴う様々な知識もなかった。なので、父の遺骨はずっと家にあったのだ。

 仏壇もないため、父の遺骨は古びたタンスの上にぽんと置かれただけ。簡易的で、粗末な弔い方だったと思う。

 それでも、子どもながらに熱心に手を合わせてみたり、そのタンスの下で父を想っていたりした。父は煙草が好きだったので、線香立てに母親が吸っていた煙草を立ててみたり。作法も何も知らない子どもだった。

 前述したが、私の家には複雑な事情がある。

 結果、今は一家離散しているし、実の母親とは絶縁している。

 そんななかでも色々な糸を辿れば連絡はつくもので、去年ある連絡が来た。

 それは、「父の遺骨を共同墓地に入れた」という連絡だった。

 父の遺骨のことに関しては家を出てから気がかりであったし、「いつかどうかしたい」と考えたまま時が過ぎてしまっていた。その連絡を聞いて、私は激しく後悔したのを覚えている。

 どうして今まで何も行動しなかったんだろう。「共同墓地」ってことは父は「無縁仏」になってしまったのか……と。

 正確に言えば必ずしも共同墓地=無縁仏という訳でもないのだけれど、私にはそのイメージが強かった。
 縁があるのに無縁として扱われてしまう……自分は親不孝者だと心から思った。

 父の遺骨は色々な人と一緒に納骨されて、ひっそりと眠っている。

 亡くなる時も、父はひとりで逝った。亡くなってからも、また寂しい思いをさせてしまったんじゃないだろうか。だけど、管理できずに遺骨にカビが生えたりするよりはいいのかもしれない。様々な考えが浮かんでは消える。

 そんな時、ふと思った。自分に優しくしてくれた父がこのことで私が悩んだり、苦しんだり、自責を繰り返すことを望むのだろうか、と。

 きっと、あの父は望まない。

 生前の父に想いを馳せると、なぜかそのことに確信を持てた。

 それに、考えようによっては共同墓地に入ったことで私は父のお墓参りにいくことができる。今までは絶縁した母が遺骨をもっていたので、お参りすることもできなかった。

 地元から離れた地で、命日に手を合わせているだけ……。きっとそのことにも意味はあるのだと思うけれど。

 それは、父というより私自身にとって。

 だけど、できるならやっぱり父の遺骨の前に行きたいし、話したいと思う気持ちもあったのだ。共同墓地なら母親に会わずに行くことができる。

 父が亡くなった日、いつも父を思い出す。私には父の遺影も位牌も、遺骨だってない。一緒に映っている写真ですら捨てられてしまった。

 でも、胸のなかには父の姿と、父の優しい思いやりがいつまでも残っている。それは20年経った今でも、私のなかに確かにある。

 お墓は何のためにあるのだろう。それはきっと故人のためだけじゃない。

 父に会いに行こう。そう思えることは、こんなにも幸せなのだから。

 

 梅雨のこの季節、この日に降る雨はいつだって優しい音がする。