> 石をめぐる冒険
第九回

“宝石の国”はどこにある?

内藤理恵子

アニメ『宝石の国』

2017年にテレビ放送されたアニメ『宝石の国』(原作・市川春子/漫画版は2012年から連載開始)をご存知でしょうか。 人の形をした宝石たちが、空から襲撃する敵(月人)と闘いながら、 時には傷つき、時には成長するストーリー。宝石たちの美しい姿と少し残酷さを含むストーリーが印象的なアニメ作品です。

むろんオリジナリティの高い作品ですが、“宝石の世界”を描いた作品は、本作が初めてというわけではありません。 筆者が、アニメ『宝石の国』から思い浮かんだのは『法華経』と『阿弥陀経』、宮沢賢治(1896〜1933)が宝石の世界を描いた童話「十力の金剛石」でした。

法華経の現代語訳

『法華経』はいうまでもなく有名なお経です。普段は読む機会がないものかもしれませんが、現在では読みやすい現代語訳も出版されていますから、驚くほど手軽に読むことができます。

筆者は、数年前に、日蓮宗のお寺に講演会に招かれたことがきっかけで、初めて現代語訳を読みました。つまり、法華経に詳しいわけでも、ましてや専門的に研究しているというわけでもありません。しかし、そこに描かれた“宝石の世界”に心洗われたような気持ちになったことは確かです。

『法華経』に描かれた“宝石の世界”について、現代語訳の一部を読んでみましょう。このお経に描かれる仏国土はさまざまな宝石に彩られています。地面がラピスラズリという設定で、他にも、瑪瑙、カーネリアンなどの石が出てきます。

こうして変容した仏国土は、地面がラピスラズリで、そこには宝樹がたくさん生えていました。宝樹の高さは三五〇〇キロメートルもあり、枝が豊かに伸び、葉があまた茂り、花が色とりどりに咲き、実がたくさんなっていました。宝樹の根もとには獅子座がありました。その高さは三五キロメートルあって、豪華な宝石で飾られていました。
正木晃『現代日本語訳 法華経』(春秋社)

『阿弥陀経』にも、瑠璃(ラピスラズリ)、玻璃(水晶)、瑪瑙(めのう)が登場します。 また、仏教学者の定方晟によれば、長阿含経や無量寿経など他にも多くの経典に「七宝」としてほぼ同じ宝石が出てきます。(参考・定方晟「七宝について」)

宮沢賢治が描いた宝石の世界

宮沢賢治が青年期に『法華経』の思想に触れて強い影響を受けたことはよく知られていて、さまざまな研究者によって論じられています。また松岡幹夫『宮沢賢治と法華経』では、宮沢賢治の童話がそのまま法華経の思想であるということはなく、彼の生まれたイエの信仰である浄土真宗からの影響も色濃く出ていることを明らかにしています。

一方で、桜井弘『宮沢賢治の元素記号』には、宮沢賢治が石を文学のモチーフにしている理由として、農学校で鉱物の標本に触ってそこからインスピレーションを得ていた……という説も書かれているのです。

それらの見解をベースにして筆者が考えたことは、宮沢賢治は小学生の頃から石好きとして知られていた人物ですから、先ず「石の存在ありき」であったのではないか、ということ。その後で、青年期に『法華経』の中に“宝石の世界”を発見して、両者が結びついたのではないかと推理しています。ここで宮沢賢治の描いた宝石の世界「十力の金剛石」の一部を読んでみましょう。

その宝石の雨は、草に落ちてカチンカチンと鳴りました。それは鳴るはずだったのです。りんどうの花は刻まれた天河石と、打ち劈かれた天河石で組み上がり、その葉はなめらかな硅孔雀石でできていました。黄色な草穂はかがやく猫睛石、いちめんのうめばちそうの花びらはかすかな虹を含む乳色の蛋白石、とうやくの葉は碧玉、そのつぼみは紫水晶の美しいさきを持っていました。そしてそれらの中でいちばん立派なのは小さな野ばらの木でした。野ばらの枝は茶色の琥珀や紫がかった霰石でみがきあげられ、その実はまっかなルビーでした。
もしその丘をつくる黒土をたずねるならば、それは緑青か瑠璃であったにちがいありません。二人はあきれてぼんやりと光の雨に打たれて立ちました。
宮沢賢治「十力の金剛石」(青空文庫)

「十力の金剛石」で丘の土が「緑青か瑠璃」と表現されるのは、『法華経』の仏国土のラピスラズリ(瑠璃)と重なります。 ここでの「緑青」とは色のことではなく、マラカイトのことを指しています。なお、 この童話は“宝石の雨”という圧倒的に美しいシーンに目を奪われてしまいがちですが、物語の中では、これはあくまでも前段階に過ぎません。 むしろ宮沢賢治の真意は「宝石のような煌びやかに見えるものに気をとられずに」というところにあるように思います。

というのも先の引用文に書かれた宝石の雨の後に、変幻自在な“十力の金剛石”(ここでの“石”は比喩であり、石でははない)なるものが降り注ぐことこそが、この物語の要のシーンになるからです。 それによって登場人物の行動(足に絡んでくる植物をどうするか、という些細なこと)が変わる・・・というのがポイントです。

そもそも「十力」とは仏さまの持っている10のパワーのことを指します。この物語は仏教の世界を描いている……という前提を踏まえておかなければ、物語の全貌を理解しにくいかもしれません。

つまり、これは石のことを描きながらも、それを主題としているわけではなく、宝石の雨の後で、登場人物が「石にも雑草にも、同じく仏さまの力が働いているのだ」と気がつく……というストーリーなのです。

華やかなクライマックスシーンの後に物語が急速に収束し、主人公の行動がちょっとだけ変わるという演出は、ハリウッド映画を思わせますが、ハリウッド映画になくて宮沢賢治にあるもの、といえば、その背景にあるものが大乗仏教の思想であるということです。アニメ『宝石の国』、『法華経』、宮沢賢治「十力の金剛石」は、それぞれがきらめく“宝石の世界”を描きながら、それを通じて伝えたいものの意味合いは異なります。 アニメ『宝石の国』は果てしなく遠い未来の世界を描いており、『法華経』では仏国土が清らかな理想郷であることの表現として。そして宮澤賢治は、理想郷(煌めく“宝石の世界”)を現実世界の気づきに収束させていくための舞台装置としているのです。宮沢賢治は真の石好きだったからこそ、石の内側に「物質的なもの以上の力」を見出し、小さな石を介してそれ以上に大きな力・・・すなわち壮大な宇宙の働きを見ることができたのだと思います。

プロフィール・内藤理恵子(ないとうりえこ)
1979年愛知県生まれ。南山大学大学院人間文化研究科博士後期課程修了。博士(宗教思想)。 南山大学宗教文化研究所非常勤研究員。日本ペンクラブ会員。執筆ジャンルの幅は哲学、文学、空海の思想、石の文化など多岐にわたる。著書に『正しい答えのない世界を生きるための 「死」の文学入門』(日本実業出版社)など。